アリイの48分の1
陸軍1式戦闘機・隼
アリイモデル随分店頭から見かけなくなりましたね
一式戦闘機
開発
ちなみに、登場したばかりの頃は一式戦の存在自体があまり知られておらず、また当時の陸軍機は胴体に国籍標識(ラウンデル)の日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍機操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空戦が起こるなどの珍事もあった。このため1942年中頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。また、外見が類似していることから、大戦後期に居たっても交戦相手の連合軍機操縦者から海軍の零戦と誤認される事例が多く、いわゆる零戦の戦果とされているものの少なからずは一式戦の戦果である。またビルマ方面のイギリス空軍からは「ゼロ・ファイター(零戦)」に類似した「ワン・ファイター(一式戦)」ということで「ゼロワン」と、それ以前にフライング・タイガース(AVG)によって「ニュー・ゼロ」と呼ばれたことも一時期あったという。
愛称
「おい――『隼』が発表になったぞッ。」
さっきから調子の悪いラジオにかじりついて調節に余念のなかった遠藤中尉が、突然首だけこっちへ向けて咽ぶように怒鳴った。
「なに――!」
食器を投げ棄てたやつがある。
航空長靴を逆さまにはきかけたやつがある。
皆、目の色を変えてラジオにかじりついた。
発表はすこぶる簡単だった。
――マライ作戦に初めて姿を現し英、米の精鋭スピットファイヤー、ハリケーン、カーチスP-40等と交戦し、至るところ敵なき戦果を収めた陸軍最新鋭戦闘機が今回覆面を脱いで発表となり、その名も『隼』と命名された。 脚が引込み式になったという外形的特徴ばかりでなく、その高性能、特に空中戦闘に理想的な旋回性能は、高度の操縦技術と相俟って冠絶を誇り、広大な大東亜戦域を完全に確保したことは本機『隼』の忘るべからざる功績である。
それに簡単なデータが付け加えられたのみであった。
けれどもこの発表に耳を澄ます我々の喜びは想像に余りがあった。
(後略)
機体の特徴
飛行性能
最高速度・上昇力
このような改良にも関わらず、最高速度は連合軍の新鋭戦闘機と比較すると劣速であった。また連合軍は大戦中期以降は初期の戦訓から一式戦の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法を駆使するようになった。大戦中後期、物量に勝る連合軍と、基礎工業力・補給能力の低さにより必要な機体数や補充操縦者、高品質潤滑油・高オクタン価燃料・交換部品といった物資を十分に揃えられなかった日本軍との戦力差は開く一方であり、日本軍機は多くの場合寡勢を強いられた。第59戦隊飛行隊長南郷大尉は1943年12月16日の戦爆連合40機(一式戦16機・三式戦闘機「飛燕」18機・一〇〇式重爆撃機「呑龍」6機)マーカス岬上陸連合軍攻撃任務においてP-38 15機と交戦したが、高空から急降下一撃離脱を行うP-38に5機の一〇〇式重爆が撃墜されたことに対し「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代にあらず」と日記にしたためている(なお、この空戦の2日後には再度マーカス岬に南郷機ら一式戦と三式戦の計30機が出動し16機のP-38と交戦、機数に勝る戦闘とはいえその運動性を活かし2機を撃墜し日本側損失は1機であった)[13]。
その一方で、一式戦は大戦中後期の劣勢下でも対爆撃機戦のみならず新鋭機を相手とする対戦闘機戦でも互角ないし勝利を重ねた史実が存在し、実際にビルマ方面や中国では戦果を挙げ(#ビルマ航空戦・#インドシナ、マレー、インドネシア方面・#中国航空戦)、特にビルマ航空戦ではスピットファイア・P-38・P-47・P-51といった新鋭機は一式戦との初交戦で一方的に落とされている。連合軍戦闘機も一撃離脱戦法を毎度行えていたわけではなく、また一撃離脱を行うも一式戦の持ち前の運動性能でこれをかわされたことも少なくない。そういった大戦後期の一式戦の特性を「落とせないが、落とされない」と評されることもある[14]。
カタログスペックから見て太平洋戦争後期には完全に旧式化した一式戦だが、1945年まで生産が続けられた。そのような機体を末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する見方もあるが、二式戦は重戦型で運動性能に優れた機体に慣れたベテラン操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がおり、三式戦闘機「飛燕」(キ61)はエンジンの信頼性に問題があり全体的に稼働率が低く、1944年より「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に生産・配備された四式戦