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アリイの隼

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アリイの48分の1

陸軍1式戦闘機・隼

アリイモデル随分店頭から見かけなくなりましたね

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一式戦闘機

中島 キ43 一式戦闘機 「隼」
1943年夏、飛行第25戦隊第2中隊のエース・大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色の赤色帯と、機体番号「15」を垂直尾翼に描いている
1943年夏、飛行第25戦隊第2中隊のエース大竹久四郎曹長の一式戦二型(キ43-II)。部隊マークとして白色で縁取られた中隊色赤色帯と、機体番号「15」を垂直尾翼に描いている
一式戦闘機(いっしきせんとうき、いちしき-)は、第二次世界大戦時の大日本帝国陸軍戦闘機キ番号(試作名称)はキ43愛称(はやぶさ)。呼称・略称は一式戦一戦ヨンサンなど。連合軍のコードネームはOscar(オスカー)。開発は中島飛行機、製造は中島および立川飛行機[注 1]
四式戦闘機「疾風」(キ84)とともに帝国陸軍を代表する戦闘機として、太平洋戦争大東亜戦争)における主力機として使用された。総生産機数は5,700機以上で、旧日本軍の戦闘機としては海軍零式艦上戦闘機に次いで2番目に多く、陸軍機としては第1位[注 2]

開発

一式戦一型(キ43-I)の三面図
1937年(昭和12年)に制式採用された全金属製低翼単葉機九七式戦闘機(キ27)は、主脚に固定脚を採用した保守的なドッグファイト向けの戦闘機だった。しかしながら、同年の欧州では引込脚のBf 109ドイツ)とスピットファイアイギリス)が出現しており、九七戦自体に限界を感じていた陸軍は新型戦闘機の開発を模索するようになる[1]。同年12月、陸軍からキ43試作内示が行われ[2]1939年(昭和14年)末の完成を目指して開発が始まった[3]。軍の要求は、固定機関銃2挺、行動半径300kmを標準として余裕飛行時間30分、同時に製作が決まった重単座戦闘機(重戦)キ44に比べて格闘戦を重視、というものである[4]。中島飛行機では設計主務者たる小山悌課長を筆頭とする設計課が開発に取り組み、設計主任太田稔技師、空力担当糸川英夫技師、構造設計担当青木邦弘技師らが設計に協力した。青木技師は陸軍の要求は「九七戦に対し運動性で勝ること」で「近接格闘性」という表現を排除していることに着目し、キ43は重戦指向であったと述べている[5]
引込脚以外の基本構造を前作の九七戦から踏襲したことから開発は比較的順調に進み、翌1938年(昭和13年)12月に試作1号機が完成、同月12日に同社の尾島飛行場にて初飛行している。ところが翌1939年(昭和14年)初頭の陸軍航空技術研究所における審査の結果、ノモンハン事件で活躍した九七戦に比べ航続距離は長いものの、最高速度の向上がわずかな上に旋回性能も劣ることが判明する。そこで軽単座戦闘機(軽戦)派、重戦派の双方から中途半端とみなされたキ43試作機型をそのまま制式採用することは見送り、より強力なエンジンに換装して高速化を図った改良型(キ43-II)の開発を進めることが決定された[6]
一式戦一型(キ43-I)
キ43の開発・改良が続けられる間にも日本と米英の関係は悪化の一途を辿った。参謀本部は、南進計画に伴い南方作戦にて遠隔地まで爆撃機を護衛可能、および制空することが出来る航続距離の長い遠距離戦闘機(遠戦)を要求。アメリカ軍イギリス軍の新鋭戦闘機に対抗可能と考えられたキ44(二式戦闘機「鍾馗」)の配備が間に合わないことと[注 3]飛行実験部実験隊長今川一策大佐の進言もあり、一転してキ43試作機型に最低限の改修を施した機体が1941年(昭和16年、皇紀2601年)5月に一式戦闘機として仮制式制定(制式採用)されることになった。
このため、太平洋戦争開戦時に一式戦が配備されていた実戦部隊は飛行第59戦隊飛行第64戦隊の僅か2個飛行戦隊(第59戦隊2個中隊21機・第64戦隊3個中隊35機)であったが、南方作戦においてこれら一式戦は空戦において約4倍の数を、対戦闘機戦でも約3倍の数の連合軍機を確実撃墜。さらに太平洋戦争自体の最重要攻略目標たるスマトラ島パレンバン油田製油所陸軍落下傘部隊(挺進部隊)とともに制圧するなど[注 4]、陸軍が想定していた以上の華々しい戦果を挙げた(#南方作戦)。1942年(昭和17年)後半以降は旧式化した九七戦に替わり改変が順次進められ、名実ともに陸軍航空部隊(陸軍航空隊)の主力戦闘機となっている。一式戦は一〇〇式司令部偵察機「新司偵」とともに、西はインドカルカッタ)、南はオーストラリアダーウィン)、東はソロモン諸島、北は千島列島とほぼ全ての戦域に投入された。
特筆に価する点として、一式戦は南方作戦といった大戦初期に限らず、ビルマミャンマー)やその南東、中国の戦線では大戦後期・末期である1944年(昭和19年)後半においても連合軍戦闘機と空戦において互角ないしそれ以上の戦果を(#ビルマ航空戦#中国航空戦)、またスピットファイア・P-38P-47P-51といった新鋭戦闘機との戦闘でも互角の結果を残していることが挙げられる(中でもこれら新鋭戦闘機の「全機種」はビルマ航空戦では一式戦との初交戦で一方的に撃墜されている)。これらは日本軍と連合軍側の戦果・損失記録の比較により裏付けも取れている史実である(#実戦[7]1945年(昭和20年)3月15日には、バンコク付近にて飛行第30戦隊の一式戦2機がP-51D 4機(当初は8機)と交戦、この一式戦2機は空中退避中にP-51D編隊の奇襲攻撃を受けた劣勢下にも関わらず、超低空での攻撃回避運動を行いつつ反撃し1機(第1戦闘飛行隊第4小隊モダイン大尉機)を撃墜したという記録が残っている[8]

ちなみに、登場したばかりの頃は一式戦の存在自体があまり知られておらず、また当時の陸軍機は胴体に国籍標識ラウンデル)の日章を記入することをやめていたため、海軍ばかりか身内の陸軍機操縦者からも敵新型戦闘機と誤認され、味方同士の真剣な空戦が起こるなどの珍事もあった。このため1942年中頃からは陸軍機も再度胴体に日章を描く様になっている。また、外見が類似していることから、大戦後期に居たっても交戦相手の連合軍機操縦者から海軍の零戦と誤認される事例が多く、いわゆる零戦の戦果とされているものの少なからずは一式戦の戦果である。またビルマ方面のイギリス空軍からは「ゼロ・ファイター(零戦)」に類似した「ワン・ファイター(一式戦)」ということで「ゼロワン」と、それ以前にフライング・タイガース(AVG)によって「ニュー・ゼロ」と呼ばれたことも一時期あったという。

愛称

映画『加藤隼戦闘隊』の劇場ポスター
戦前中の日本では主に軍内部やマスメディア上において、陸軍航空部隊自体や各飛行部隊、航空機から空中勤務者などの比喩表現として「(荒鷲・陸鷲)」「」「隼」「翡翠」といった鳥類の呼び名が盛んに用いられており、それに呼応するように一般国民に対する宣伝のため、陸軍航空本部発表の正式な愛称として一式戦は「」と命名され(発案者は航本報道官西原勝少佐)、太平洋戦争開戦まもない1942年3月8日には「新鋭陸鷲、隼、現わる」の見出しで各新聞紙上を賑わした。
太平洋戦争中には戦況を報じる新聞・ラジオ放送ニュース映画雑誌戦記本絵本軍歌戦時歌謡)などといった各種メディアのみならず、加藤隼戦闘隊こと第64戦隊の戦隊長として南方作戦で活躍し軍神と称された加藤建夫少将[9]、「ニューギニアは南郷で保つ」と謳われた第59戦隊飛行隊長・南郷茂男中佐に代表されるエース・パイロットの活躍、映画翼の凱歌』(1942年10月公開)・映画『愛機南へ飛ぶ』・記録映画『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(共に1943年(昭和18年)公開)・映画『加藤隼戦闘隊』(1944年3月公開)といった実機の一式戦が出演する映画作品、および第64戦隊で加藤少将のもと一式戦で戦った遠藤健中尉檜與平中尉が記した戦記本『加藤隼戦闘部隊』(1943年5月発行、のち映画『加藤隼戦闘隊』原作本)、伊丹陸軍飛行場(摂津陸軍飛行場)にて行われた一式戦の公開飛行(1943年3月、さらに鹵獲したB-17P-40との模擬空戦も披露)[10]などを通じ、一式戦「隼」は太平洋戦争中、最も有名な日本軍戦闘機として日本国民に広く親しまれることとなった
なお、以下の文面はパレンバン空挺作戦後の1942年3月頃、第64戦隊の空中勤務者達が「隼」の命名発表を戦地で聴いた際の言動である[11]

「おい――『』が発表になったぞッ。」
 さっきから調子の悪いラジオにかじりついて調節に余念のなかった遠藤中尉が、突然首だけこっちへ向けて咽ぶように怒鳴った。
「なに――!」
 食器を投げ棄てたやつがある。
 航空長靴を逆さまにはきかけたやつがある。
 皆、目の色を変えてラジオにかじりついた。
 発表はすこぶる簡単だった。
 ――マライ作戦に初めて姿を現し英、米の精鋭スピットファイヤーハリケーンカーチスP-40等と交戦し、至るところ敵なき戦果を収めた陸軍最新鋭戦闘機が今回覆面を脱いで発表となり、その名も『』と命名された。 脚が引込み式になったという外形的特徴ばかりでなく、その高性能、特に空中戦闘に理想的な旋回性能は、高度の操縦技術と相俟って冠絶を誇り、広大な大東亜戦域を完全に確保したことは本機『』の忘るべからざる功績である。
 それに簡単なデータが付け加えられたのみであった。
けれどもこの発表に耳を澄ます我々の喜びは想像に余りがあった。
(後略)

元加藤部隊 陸軍中尉 遠藤健檜與平『加藤隼戦闘部隊』 1943年5月20日初版発行

機体の特徴

飛行性能

最高速度・上昇力

一式戦一型丙(キ43-I丙)のハ25。環状冷却器が特徴
ハ25(離昇950馬力)を搭載した一型キ43-I)の最高速度は495km/h/4,000mにとどまった。ハ25は二一型以前の零戦に搭載された栄一二型とほぼ同じものであるが、燃料が統一される開戦直前まで、陸軍では海軍より低オクタン価の燃料を使用していたことや2翅プロペラだったことが零戦との最高速度の違い(主翼改修前の零戦二一型の最高速度は509km/h)となって表れたと考えられる。エンジンをより高出力のハ115(離昇1,150馬力。海軍の栄二一型とほぼ同じ)に換装し、3翅プロペラ(直径は2.90から2.80mに短くなっている)を装備した二型キ43-II)試作機の最高速度は515km/h/6,000mに向上、増速効果のある推力式単排気管を装備した二型後期生産型ではこれより30km/h以上高速だったとされる。一方でニューギニア航空戦を戦ったエースである第59戦隊飛行隊長南郷大尉は、1943年4月17日の日記に「二型は軽く550km/h位迄出、存速滅せず振動なくすこぶる気持ち好し」としるしている[12]。更に高出力なハ115-IIに換装した三型キ43-III)では560km/h/5,850mに向上しているが、機体重量が増したことから上昇力は一型と同程度に留まっている。

このような改良にも関わらず、最高速度は連合軍の新鋭戦闘機と比較すると劣速であった。また連合軍は大戦中期以降は初期の戦訓から一式戦の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法を駆使するようになった。大戦中後期、物量に勝る連合軍と、基礎工業力・補給能力の低さにより必要な機体数や補充操縦者、高品質潤滑油・高オクタン価燃料・交換部品といった物資を十分に揃えられなかった日本軍との戦力差は開く一方であり、日本軍機は多くの場合寡勢を強いられた。第59戦隊飛行隊長南郷大尉は1943年12月16日の戦爆連合40機(一式戦16機・三式戦闘機「飛燕」18機・一〇〇式重爆撃機「呑龍」6機)マーカス岬上陸連合軍攻撃任務においてP-38 15機と交戦したが、高空から急降下一撃離脱を行うP-38に5機の一〇〇式重爆が撃墜されたことに対し「P-38に翻弄され、もはや一式戦の時代にあらず」と日記にしたためている(なお、この空戦の2日後には再度マーカス岬に南郷機ら一式戦と三式戦の計30機が出動し16機のP-38と交戦、機数に勝る戦闘とはいえその運動性を活かし2機を撃墜し日本側損失は1機であった)[13]

その一方で、一式戦は大戦中後期の劣勢下でも対爆撃機戦のみならず新鋭機を相手とする対戦闘機戦でも互角ないし勝利を重ねた史実が存在し、実際にビルマ方面や中国では戦果を挙げ(#ビルマ航空戦#インドシナ、マレー、インドネシア方面#中国航空戦)、特にビルマ航空戦ではスピットファイア・P-38・P-47・P-51といった新鋭機は一式戦との初交戦で一方的に落とされている。連合軍戦闘機も一撃離脱戦法を毎度行えていたわけではなく、また一撃離脱を行うも一式戦の持ち前の運動性能でこれをかわされたことも少なくない。そういった大戦後期の一式戦の特性を「落とせないが、落とされない」と評されることもある[14]

カタログスペックから見て太平洋戦争後期には完全に旧式化した一式戦だが、1945年まで生産が続けられた。そのような機体を末期まで生産・運用したことを陸軍の不手際と評価する見方もあるが、二式戦は重戦型で運動性能に優れた機体に慣れたベテラン操縦者(あるいは適応力のない操縦者)の中には使いにくいと評価する者がおり、三式戦闘機「飛燕」(キ61)はエンジンの信頼性に問題があり全体的に稼働率が低く、1944年より「大東亜決戦機」たる主力戦闘機として重点的に生産・配備された四式戦


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